たまりば

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大バッハの快感

町田市で作曲家やってるTomです。なんで大バッハはそんなに重要なのかって話題を。

日課といえば、大バッハの『適正律』(平均律ではない)第一・二巻から気に入った作品をひくこと。
『適正律』は、鍵盤楽器のための前奏曲とフーガのくみあわせが、すべての短調・長調に展開されている曲集。
調性は12音に成立するから、その短調と長調で、各巻24曲。

現在一般的な平均律の最大の問題は、どの調性でも、長3和音が狂っていること。
和音を根幹にすえたタイプの音楽で、長3和音がにごっているのは、いかんともしがたく致命的。

現在の電子ピアノは、メーカー問わず、いくつか調律がえらべる。
長3和音をおさえたまま調律を変更すると、いかに平均律が耐えがたいほど長3度をにごらせているかが、一聴瞭然。

これが大バッハの『適正律』とどう関係するか。

平均律では、各作品に選択された調性の個性がかくれてしまう。オルガンを研究する平島達司は、つぎのように述べている。
「平均律の楽器では,言われなければ気がつかないほど,歴史的調律法の移調による曲想の変化は表われて来ないことであろう(平島 1980:234)」。

裏を返せば、適正律(=歴史的調律法)では、調性に個性がみとめられる。これに関しては、つぎのように明快な説明をあたえている。
「昔の調律法では調によって長3度の純正さが変化するので,調によって曲の与える緊張感や清澄度が変わるため,調に特有の感じが生まれるのである(平島 1980:78)」。

もひとつ大バッハといえば、フーガの権威。

フーガは、旋律と旋律がからみあう対位法にもとづいているとは、ききおよんでいるでしょう。
かんたんにいえば、旋律の都合が優先されるつくりの音楽です。

旋律とは、継起的な音の連なり(註)。
旋律操作が構築の興味となる対位法では、その垂直的な和声の解釈格子を、旋律の音ひとつごとに変更していくこともできる。
いいかえれば、旋律の音を、どの和声/和声外音に見立てるかの自由が、大きい。

もちろん、納得のいく和声におさめる、調性にもとづいた努力も同時になされている。
それでも、旋律の音からドンドンハッテンしてそれていく可能性は、和声的な音楽よりダンゼン強い。
だからさいしょは伴奏なしで、むきだしの主題ではじまる。つまり、和声付けの可能性をゼロにしておく。

形式感は、「主題にもとづいたことやってますよ」を全体に保証することで、確保。
転調してくりかえす主題の提示と、主題にもとづいた嬉遊部の交替。どこを切っても、主題(と、その対旋律)に関係がある。
さいしょと最後の調性は、かならず一致。これが、形式感に寄与する。

***
そのうえで、フーガを弾いてての実感。

旋律と旋律がからみあう際、たがいに協力して、たがいに道にそむいて、それでもたがいの落としどころたる和声へと、ついに墜ちていくのが、たまらない快感なんですな(←ヘンタイだー)。
これは弾いてる指でも、きいてる耳でも確認される。

おなじスリルは、和声にもとづいた音楽でも工夫されている。もちろん。
だけどフーガでは、徹頭徹尾それをやられるからねえ(濃厚)。
音の操作という知的快感が、あますところなく追求されている。

そしてその出来がバツグンにいいのです、大バッハは。

とはいっても、音づかい(=調性)は、時代や個人の好みでも変わってくる。
だから調性が拡大していけば、新しい対位法が実現される。

で、ラヴェルもフーガを書いている。
でも、ためしただけみたく、ただ1曲にとどまったのはなぜでしょう。

註 なぜそれが、まとまりをもってきこえるかは、脳の認知機能による。
  音楽は、認知で完成する。この点、ことば(=発話)とおなじ。

平島達司『オルガンの歴史とその原理:歴史的オルガン再現のための資料』(1980年、松蔭女子学院大学学術研究会)  
タグ :音楽雑記


  • 2020年10月06日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00Comments(0)