いわゆる絶対音感への疑問
町田市で作曲家やってるTomです。電子ピアノの特権で、基準ピッチをA=422,5Hzへと変更した。これはヘンデルの持っていた音叉の音高(1751年)。
現在の標準高度は、A=440Hzだから、当時はずっと低かったことがわかる。合奏するわけではないから、なんの問題もなく耳にしていた。
なお、このピッチが高くなっていった経緯は、そのほうが金管楽器がより輝かしくきこえ、音色や演奏効果に貢献したからだという。だったら金管楽器との合奏を伴わないピアノ独奏が主であるなら、ピッチを相対的に高く保つ必要はない。
そんなある日。『大地讃頌』のピアノ伴奏がきこえてくる。もちろん歌ったことも、伴奏をさらったこともある。シャープが5つもつく、ロ長調。なつかしいなと耳をかたむけていると、サブドミナント-ドミナント-トニックのコード進行が勝手に了解され、F-G-Cだと判別。
え、おかしいだろ。ホントはすべて半音下で、E-F#-Bでなければならぬ。
基準ピッチを422,5Hzに変更した結果、現在のは半音上にきこえるようになっていたわけだ。だからロ長調の曲は、半音上のハ長調だと、認知される。
そこできづく。いわゆる絶対音感など存在しないと。
なぜならヘンデルの時代は、A=422,5Hzにもとづいたドレミが汎用だった。楽譜のよめる現在の音感保持者は、それらが半音下のシド#レ#にきこえないと、すべてまちがいになってしまう。
ぎゃくにヘンデルが、現代の基準でその音叉を半音下のG#だといわれたら、その人を音感なしだとかんがえたろう──その人がいわゆる絶対音感の保持者であろうがなかろうが。
このようにドレミの基準ピッチは、歴史的に変遷している。同時に、特定の音高にあてられる音名もまた、時代でことなる。ヘンデルと現代では、半音。
ここから、いわゆる絶対音感とは、特定のピッチに、ドレミという音名を弁別する能力だとかんがえられる。
母語と呼ばれる、はなしことばが、後天的な獲得であるように、とあるピッチに音名を弁別する能力もまた、後天的に獲得される。
したがって、すべての音感は歴史的な(または恣意的な)ものであり、いわゆる絶対音感は存在しない。すべての音感は、相対音感である。
***
(自称をふくめた)音感保持者における弁別能力のグラデーションは、音感能力の獲得が、母語としてのはなしことばの獲得に先行しないことを、示唆する。これは、第2言語の獲得は母語に依存し、その能力におおきな差異がみとめられるのと比較できる。ここから、第2(以後)言語としての相対音感の可能性が、提起しうる。
しかしながらこのことは、音高の弁別に先天的に長けた人の存在ならびに、その遺伝による獲得の可能性を否定するものではない。しかしながら、その特権的(にみえる)能力に、いわゆる絶対音感との分節(=なづけ)が必要かどうかは、社会の判断。
***
さらに音高(=ピッチ)もまた、音色としてきいている可能性もある。
たとえば日本の鼓(=つづみ)は、トーキングドラムのように音高が変更可能なドラムです。その2つの音が、アッチェレランドしながらトントンッとつづけて打ち出されると、かならず低い音から高い音の上行型で、演奏される。高い音から低い音へと連続する下行型は存在しない。
われわれはこの2音間の差異を、音高の差異として認知しているだろうか?たとえば片方をド、もう一方をレのように。そうではなく、高い音を明るい音、低い音を暗い音のように、鼓のもつ2つの音色として、きいていないだろうか。
物理学では音高は振動数、音色は複数の倍音の複合や、発音時の特徴的なノイズ、フォルマントの存在/非在、発音機構の差異等に峻別される。しかしほとんどの打楽器では、発音可能な音高の差異が、そもそも作品構成上の基本要素としては、利用されていない。したがって、日本の鼓の場合、その音高の差異が音色として利用・認知されていても、ふしぎではない。
アレクサンダー・ウッド『音楽の物理学:音楽をする人たちのための入門書』(1976年、音楽之友社)
現在の標準高度は、A=440Hzだから、当時はずっと低かったことがわかる。合奏するわけではないから、なんの問題もなく耳にしていた。
なお、このピッチが高くなっていった経緯は、そのほうが金管楽器がより輝かしくきこえ、音色や演奏効果に貢献したからだという。だったら金管楽器との合奏を伴わないピアノ独奏が主であるなら、ピッチを相対的に高く保つ必要はない。
そんなある日。『大地讃頌』のピアノ伴奏がきこえてくる。もちろん歌ったことも、伴奏をさらったこともある。シャープが5つもつく、ロ長調。なつかしいなと耳をかたむけていると、サブドミナント-ドミナント-トニックのコード進行が勝手に了解され、F-G-Cだと判別。
え、おかしいだろ。ホントはすべて半音下で、E-F#-Bでなければならぬ。
基準ピッチを422,5Hzに変更した結果、現在のは半音上にきこえるようになっていたわけだ。だからロ長調の曲は、半音上のハ長調だと、認知される。
そこできづく。いわゆる絶対音感など存在しないと。
なぜならヘンデルの時代は、A=422,5Hzにもとづいたドレミが汎用だった。楽譜のよめる現在の音感保持者は、それらが半音下のシド#レ#にきこえないと、すべてまちがいになってしまう。
ぎゃくにヘンデルが、現代の基準でその音叉を半音下のG#だといわれたら、その人を音感なしだとかんがえたろう──その人がいわゆる絶対音感の保持者であろうがなかろうが。
このようにドレミの基準ピッチは、歴史的に変遷している。同時に、特定の音高にあてられる音名もまた、時代でことなる。ヘンデルと現代では、半音。
ここから、いわゆる絶対音感とは、特定のピッチに、ドレミという音名を弁別する能力だとかんがえられる。
母語と呼ばれる、はなしことばが、後天的な獲得であるように、とあるピッチに音名を弁別する能力もまた、後天的に獲得される。
したがって、すべての音感は歴史的な(または恣意的な)ものであり、いわゆる絶対音感は存在しない。すべての音感は、相対音感である。
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(自称をふくめた)音感保持者における弁別能力のグラデーションは、音感能力の獲得が、母語としてのはなしことばの獲得に先行しないことを、示唆する。これは、第2言語の獲得は母語に依存し、その能力におおきな差異がみとめられるのと比較できる。ここから、第2(以後)言語としての相対音感の可能性が、提起しうる。
しかしながらこのことは、音高の弁別に先天的に長けた人の存在ならびに、その遺伝による獲得の可能性を否定するものではない。しかしながら、その特権的(にみえる)能力に、いわゆる絶対音感との分節(=なづけ)が必要かどうかは、社会の判断。
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さらに音高(=ピッチ)もまた、音色としてきいている可能性もある。
たとえば日本の鼓(=つづみ)は、トーキングドラムのように音高が変更可能なドラムです。その2つの音が、アッチェレランドしながらトントンッとつづけて打ち出されると、かならず低い音から高い音の上行型で、演奏される。高い音から低い音へと連続する下行型は存在しない。
われわれはこの2音間の差異を、音高の差異として認知しているだろうか?たとえば片方をド、もう一方をレのように。そうではなく、高い音を明るい音、低い音を暗い音のように、鼓のもつ2つの音色として、きいていないだろうか。
物理学では音高は振動数、音色は複数の倍音の複合や、発音時の特徴的なノイズ、フォルマントの存在/非在、発音機構の差異等に峻別される。しかしほとんどの打楽器では、発音可能な音高の差異が、そもそも作品構成上の基本要素としては、利用されていない。したがって、日本の鼓の場合、その音高の差異が音色として利用・認知されていても、ふしぎではない。
アレクサンダー・ウッド『音楽の物理学:音楽をする人たちのための入門書』(1976年、音楽之友社)