たまりば

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強行すれば失敗

町田市で作曲家やってるTomです。あくまでも「開催すれば成功」をつきすすむ、トーキョーオリンピック。

劇団文化座公演158『ビルマの竪琴』の、とある場面が想起される。

そこでは「降参しなければ負けるはずはない」といいつのる、ある日本兵の狂気。

すでにニッポンは降伏後。不利な陣地。兵站の不足。目前に英国軍。30分後に戦闘開始。負傷兵多数。厭戦気分がもれる。

それなのに「総員の決意」として、「われわれはあくまでもここを死守する」ことになった...。

「開催すれば成功」のうらをかえせば、「中止しなければ失敗するはずはない」となる。これは端的に狂気ではないのか。

***
これらの狂気に対して、われわれはなにを突きつけるべきか。

「強行すれば失敗」です。強行=失敗

じつに八割を超える(世論という名の)総員の決意が、それぞれの判断で、「ノー」をしめしている。

開催とは、じつのところ強行にすぎない。開催=強行

したがって強行どころか、「開催すれば失敗」なのです。開催=失敗

なぜなら、総員の決意に叛くから。それが民主主義。

***
ちなみに舞台では、降伏をすすめる水島上等兵の決死の行動で、辛くも全滅をのがれるのだが、それはなんどでもやりなおしのきく、お芝居のはなし。

じっさいには、強行の代償に多くの人命をはらってきた、過去をふりかえろう。

いまからでもおそくはない:「ノー」がいえない集団は危ない。  


  • 2021年06月16日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00Comments(0)

    生きた古典芸能またはガムラン音感(承前)

    町田市で作曲家やってるTomです。そして、ガムラン音感。

    いわゆる絶対音感への疑問で、相対音感のみしか存在しないと、述べた。

    今回のワヤン・クリッ公演でも、かつて演奏した曲がきこえてくる。つぎのように:

      3232/5353/2321/
      2121/3232/3565/
      6565/5353/6532/

    ドレミファではなく、数字で「さんにーさんにーごーさんごーさん」と。ガムランでは音符ではなく、数字譜をもちいる。これは闘いの場面にもちいられる「スルプガン」Srepeganの旋律。音が4つずつの3小節が3グループ。これを何度もくりかえす。

    それと、ガムランセットには標準音高は存在せず、音高は各セットごとにことなる。

    だから、とあるセットの音高から、数字と音高を固定した認知の養成──いわゆる絶対音感の訓練──は無意味。

    ひつような認識は、たとえば3と2の音程関係であって、2と1の音程関係である。それに沿って、ペログ、スレンドロのふたつの音階が構成されている。各楽器もペログ用、スレンドロ用と、音階ごとにかならず2つ。

    そのうえで各曲は、通常スレンドロかペログのどちらかだけで構成されている。曲の途中で音階を変更する特殊なケースでは、新しい音階の楽器へ、すわる向きを変える。ちなみにスルプガンは、スレンドロ音階。

    ガムラン音感とは、2つのおおきくことなった音階が、それぞれ構成する音程関係(と、その結びつき)にもとづいた、聴覚上の意味の体系といえよう。だから、スレンドロとペログ音階をとりちがえることはない。もちろんおなじことは、長調と短調に沿った音楽でもいえよう。

    ***
    音大でガムラン実習にとりくんだ当初は、数字ではなく、ドレミファできこえていた。だから五線で、アンサンブル全体をスコアに起こす者も出る。だが学習がすすむにつれ、自然と数字できこえるようになった。つまりそれだけガムラン音感、またはガムランの音楽性に親しんだということ。

    そしてその獲得されたガムラン音感は、特定のガムランセットからは、相対的に自律して認知されるべきもの。というのも、くりかえすがガムランセットに標準音高は存在しないから。これは垂直方向の歴史遷移ではなく、水平方向の同時代差異(註)。

    ガムラン音感は、音大で獲得が期待される、長短調上の和声や旋律認知に資する相対音感とは、もちろんことなる。だが、いちばんのポイントは、一人のヒトは複数の音感を獲得しうるということ。これを、複音楽性(=bi-musicality)という。

    そして各音感が、その音程関係にことなった意味あいを擁する、聴覚上の意味の体系だとするなら、ことばと音楽の相同性が、ここに(も)みとめられる。ヒトはバイリンガルになれるように、複音楽性も身につけられる。

    ***
    まさに現在のぞみうる、最高のワヤン・クリッ公演であった──またもや空腹をかかえてはいたけど。開演は18時30分。

    註:厳密にいうと、各ガムランセットの製作年代および製作地域を同定し、それぞれの音高を計測すれば、歴史遷移の傾向がよみとれるかもしれない。しかしながら、ガムランセットに製作年・地域および製作者を刻する習慣はない。

    ランバンサリ事務局『「スマントリとスコスロノ」公演プログラム』(2021年)
    松本亮『ワヤン──ジャワの影絵芝居』(1977年、平凡社カラー新書72)
    Hood, Mantle The Challenge of "Bi-Musicality" in Ethnomusicology, Vol.4, No.2 (May, 1960), pp. 55-59. (University of Illinois Press)  
    タグ :音楽雑記


  • 2021年06月14日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00Comments(0)

    生きた古典芸能またはガムラン音感

    町田市で作曲家やってるTomです。インドネシアはジャワの影絵芝居、ワヤン・クリッをみてきた。

    ↓今回もオンライン配信が予定(公演終了1週間後から1ヶ月程度)。

    https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/02iavkv1xsm11.html

    ちぢめてたんに「ワヤン」とされることもある。

    水牛の皮でできた影絵人形は、演者側からも鑑賞するからか、きわめてうつくしい彩色がほどこされている。それをガムランで伴奏していく舞台芸能。

    人形つかい(以下、現地表現のダランとする)は、人形をつかうだけではない。セリフとナレーション(ときに楽隊へのきっかけとなる)に、うた。あぐらをかいた足ゆびにはさんだ道具を金属板とぶつけ、効果音&きっかけ。舞台に即興ネタをはさみこむ。いつみても、常人とはおもわれぬ八面六臂の大活躍。

    あつかう人形は、人物以外もふくめ、今公演では最低でも17体。それらを影絵の光源にちかづけるズームアップをぞんぶんに用い、きわめてダイナミックな舞台を実現する。

    ジャワでは、ワヤン・クリッ公演は夜から明け方までの長丁場(まるでディスコテカのやうな)。今回は、その2晩分の内容を2時間に縮約といふ。たとえば落語の一席が、尺次第でいかようにもなるように。

    ダイナミックな舞台のいっぽう、影絵人形の肩とひじにしくまれた関節が、両手をつかった繊細な情緒を表現する。たとえばそれは、ガムラン伴奏の舞踊でもみられる、様式化したあいさつの身振りに顕著。

    人形の顔の彩色と体型、また相対的なサイズの大小は、それぞれに特定のキャラクターを暗示し、ストーリー展開を追うのに貢献する。たとえば極端に理想化された、スレンダーな体型の主役。つきでた腹、全体にずんぐりむっくりした道化。赤顔で、ほかを圧するサイズの魔王。男性よりも小さいサイズの王女等。

    ***
    ポイントは、筋のはこびかた。松本亮は、次のように説明する。

      基本台本はあるにはあるが、そこには物語の粗筋やその物語の基本理念があるだけで、台詞は記されていない。そこではつねにダランの即興が要求される(松本 1977:19)。

    うらをかえせば、それでも、みているだけでわかるということ。

    本公演のダランは、インドネシアはジョグジャカルタ出身。2005年から日本在住。今回の舞台も日本語&ジャワ語でパフォーマンス。セリフもナレーションも、即興の場面ですら、日本語で物語世界が現出する。しかもそこには新型コロナパンデミック下、公演キャンセルつづきをぼやく、笑いの場面すらふくまれるのだ。画期的かつ、希有な才能。

    「みているだけでわかる」とは、あらすじをうけもつ主役人形のやることは、さほど変わらないということ。これが毎回きょくたんにちがうと、人物造型または演出、つまり各回の舞台の焦点が変更してしまう。

    だから、本筋にかかわらない道化(人形)の場面が、伸縮自由自在。これはダランの「ゴロゴロ」との一言で、はじまる。「ゴロゴロ」とダランが口にした瞬間に、ここからは本筋とは関係なく、しかもぞんぶんにくすぐりや現下の情勢を皮肉ったりするんだなと、予測がつく。まあ、ワヤンのガムラン伴奏もやったことあるから、きづいたんだけど。

    2021年6月12日の公演では、ダランのきっかけからはじまる、女声ソロから太鼓への流れを、本番中になんどもダメ出し。しかもそれがそのまま、多少お茶目かつ、真剣なダランの音楽へのとりくみを証し、さらにガムラン音楽の解説にもなっている。一石三鳥。

    さらに道化が、予定終演時間を超過する懸念を口にする。メタシアター?

    というよりも、ダラン自身がきづいた懸念を(他人事のように)道化に語らせるだけで、舞台に貢献する。きわめて合理的な処置。ともあれ、そんなこんなで今回も、予定上演時間を20分ちかく伸ばした。

    ***
    ワヤン・クリッを古典芸能だとし得るのは、あらすじが『ラーマーヤナ』といった古典テクストに依拠しているから、だけではない。

    ダランがある影絵人形を、スクリーンの高い位置にさしかざす。それは光源へとちかづき、ズームアップ。このふたつのアクションから、当該人形が;

     ・超自然的な能力を有するか、超自然の存在
     ・空中にあらわれ、その形姿を拡大変化
     ・その結果、特別な能力をリアルタイムで行使している

    ジャワの人形劇(ワヤン・ゴレッ)でも、ヒトの芝居(ワヤン・オラン)でも、この演出は不可能。

    その意図は、体感的かつ直感的に理解される。しかもその効果は、いわゆる型(=かた)として、ズームアップの速度がもたらす意味のちがいとともに、伝習可能となっている。

    このあたりに、古典芸能たるゆえんをみとめられないだろうか──影絵芝居の演出要素が、どんな物語であれ利用可能なまでに、ととのっている。これを影絵芝居の文法、または意味の体系と呼ぶことにしよう。

    また、ダラン自身の効果音と楽隊の太鼓は、人形が踊っているがごとく、バシバシとつけていく。それがガムラン伴奏と、ピッタリかみあう快感。おなじことは、舞踊にもみとめられる。この洗練にも、古典芸能のあじわいがかんじとれる。

    次回はガムラン音感について、複音楽性とあわせてかんがえてみたい。  
    タグ :音楽雑記


  • 2021年06月13日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00Comments(0)

    コンサートは19時開演(承前)

    それとは知られぬコンサートの音楽ジャンル拘束について、前稿でのべた。

    コンサート(会場)ではきけない類の音楽として、野外の音楽、なにより決まったプログラムも、演奏場所ももたない流しが、挙げられる。

    放浪芸とも呼びうるこの音楽パフォーマンスは、音楽ジャンルのヒエラルキー中、その最下層に位置する。信じがたいほどに克明な、『恋慕流し』の描写をみてみよう。

      ・編笠を傾け(中略)埃に白けた脚絆に歯の欠けた日和下駄
       ↑くたびれた自前の装束
      ・広小路
       ↑街頭
      ・天は高く、星は眩く、(中略)最早秋だ
       ↑夜間
      ・尺八の露を通して、胡弓の絲も掛け正して、新たに合奏を続け行く
       ↑歩きながら演奏
      ・一曲と所望せられるまゝに
       ↑開始不定
      ・人人には能くも解らなかつた様子であるから
       ↑目前の相手にあわせた曲目選定
      ・犇々と人垣を作つて
       ↑聴取場所の不定
      ・女子供はわいわいと騒立てて
       ↑十全とはいえない演奏・聴取環境
      ・足を踏む、體を押す
       ↑奏者/聴衆の未分離
      ・言ひたいまゝの注文
       ↑選曲は相手に決定権
      ・若干かの心附を与へさせて
       ↑対価不定
      ・えゝ、こう、疾く行らねえか
       ↑聴衆からのダイレクトなうながし
      ・さゝほうかい。恁うも窶るゝねえ恁うも、窶るゝものかいな。辛気い、辛苦。
       ↑芸術性の低い文句
      (小栗 1928:390-1)

    みごとなまでに現今のコンサートの条件が、ことごとく果たされていないのがわかる。

    もしくは、これらすべての条件の対蹠地として、コンサートが措定されているともいえる。したがって、コンサートに出演する奏者は、次のように理想化されている。

       アポロの聖殿に一生を捧げて、一管の清音を生命としてゐる青春可憐の楽師に向かつて(小栗 1928:380)

    洋楽は、平出鏗二郎(1866-1911)『東京風俗志』下巻(1902)「洋楽」で、次のように認識されている。

      蓋し西洋音楽は、我が国の音楽に比すれば、許多の進歩を経たるものなれども(平出 2000b:125-6)

    流しは、『東京風俗志』上巻(1899)「窮民の業──辻芸人、物貰」で、「門附」として言及されている。

      編笠目深かに鼓弓、琴、月琴、尺八など合奏して、ホウカイ節あるははかなき流行歌など歌ひ来れるがあり(平出 2000a:76)。

    まさしく、この二人の姿だ。

    ***
    絢爛たる小栗の文章がつづるのは、うるわしき音楽家男女が、上述のように流しをするまでに零落して、あたら才能を散らすにいたる、かなしき恋のてんまつ。いっぽうで、当時の音楽界がつぎのごとく分析されるのには、小栗の筆の鋭さをかんじざるをえない。

      我国民楽の基礎も定らぬ今日、洋楽と和楽と、如何に取捨すべきかを研究しつゝある我国の今日(小栗 1928:380)、

    ここでは、洋楽の流入にともなって、科学と同様の大股な進歩が、これからの音楽にも前提視されている。なぜなら、時代機運はおおいに高まっているのに、「余りに在来の楽は繊弱である(小栗 1928:344)」。このように述べる役どころは、外交官としてロンドン勤めもある、従三位の子爵。音楽ジャンルのヒエラルキー固定は、富の偏在とも関連していた。

    築地女学校で、将来を嘱望される演奏をみせる一方、上野界隈を流して歩くまでに零落する尺八奏者、秦純之介をみてみよう。のちに破門されるものの、古典流派の一番弟子であり、音楽ジャンルのヒエラルキーを、最上層から最下層まで歩き通す。

    ベクトルは下向きではあるが、音楽家として、すべての層を魅了するだけの技倆を擁している点を、指摘しておきたい。

    その『恋慕流し』発刊から、121年。「国民楽」とはもはや呼ばれないものの、われわれはいかに洋楽と和楽を取捨選択してきただろうか。および、研究の成果として、どんな音楽をどのようなかたちで、現在享受しているだろうか。

    小栗磯夫『明治大正文学全集17』(1928年、春陽堂)
    平出鏗二郎『東京風俗志』上巻(2000年a、ちくま学芸文庫)
    平出鏗二郎『東京風俗志』下巻(2000年b、ちくま学芸文庫)  
    タグ :音楽雑記


  • 2021年06月09日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00Comments(0)

    コンサートは19時開演

    町田市で作曲家やってるTomです。先日あしをはこんだコンサートのはなし。

    平日の19時開演。オーケストラのための新作、4作品。休憩20分をはさんで、2曲ずつ。さいごの作品がもっとも長大なもの。終演は21時7分頃。

    後日、コンサートの様子を師匠とはなしていると、ヨーロッパでは開演はもっとおそいといふ。21時とか。そして終演も、深夜ちかくになる。

    そのかわり、開演まえに食事をきちんととれる。

    19時開演では、その前後に食事をとりにくいのですね。これはよくわかる。とりあえず、肉まんかじって会場にかけつけたり。たのしむどころではない。

    ***
    明治の作家、小栗風葉(本名は磯夫)(1875-1926)の出世作『恋慕流し』(1900)の冒頭は、なんとコンサートのプログラムが掲げられている!

    その内容は;新作唱歌をふくむ洋楽と、和楽をとりまぜた全10曲(清楽も1曲)。各5曲ずつの二部構成。

    時は春の末、場所は築地女学校の唱歌室。出演者も観衆も、「皆この学校に縁故のある人々(小栗 1928:344)」。

    開演時間の記載はないが、第9曲が終わったのが「彼是九時半近くでもあろうか(小栗 1928:344)」。すると、20時開演とかんがえられる。現在よりおそい。

    架空のものではあるが、このプログラムは次のようなものではないと、強く宣言されている。

      著しく国民楽の欠乏を一般に感じ出し(中略)直にミューズが神来の曲に触れやうと早る年若い聴衆を、固より此順序書で満足させやうと云ふのではないのだ(小栗 1928:344)。

    「順序書」には「プログラム」と、ふりがな。それでもこのプログラムは、「西楽の荘重なるのと、和楽の温雅なるのと、何れも此道堪能の名手が熱心なる調の面白からぬ筈はなくて(小栗 1928:344)」。

    プログラム内容で、どちらがより芸術的かと、すでに上下関係が想定されているのに注意したい。

    ***
    それで、開演時間が19時だと、終演にむかってつのりゆく空腹感。さらにさいごの曲がもっとも長大となると、まだ帰れないかと、人の子ら、イライラもつのってくる(こともある)。

    いつしかわれわれは、コンサート会場というのは最善の聴取環境を提供する、色のついていない音楽実験場だと、あたかも真っ白なキャンバスのようにかんがえていないか。音響効果をととのえ、原則として居心地のよいイスが、順序よくならぶ;そこできかれる新作は、個人の脳髄からなる創作物であり、それを聴取・研究するに最適な場所だと。

    これがハナから深夜終演となると、コンサートとはいえ機会音楽だ。夜にきかれる音楽として、内容も影響をうけるのではないか。

    さらに会場へ足をはこんだ時点から、プログラム内容の洗練、洗練された演奏もまた、大なり小なりコンサートでは期待されている。すると、次回にみていくような、そこではきけない類の音楽があることを、不可視化しないだろうか。さらにいえば、音楽ジャンルのヒエラルキーを形成し、みずからがその頂点にあたると自任しないか。

    後半は次回へ。  
    タグ :音楽雑記


  • 2021年06月08日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00Comments(0)

    作曲を学ぶ&楽しむ会のお知らせ

    町田市で作曲家やってるTomです。作曲を楽しむ会のおしらせ。

    14回目。しめきりは6月30日。

    https://sakkyoku.ensemble.fan/correction-14/

    毎回2小節の旋律課題を出します。それを利用して、16小節ていどの小品にまとめるというもの。

    今回の旋律はニ長調、あるいは、ロ短調のどちらでも展開できる。おこのみしだいで。


    こういった作例として、オイラの『てておやのテーマ』。



    変イ長調のテーマが、平行調のヘ短調に移っても、ほぼそのままのかたちで登場。テーマはさすがに2小節ではなく、12小節ある。

    ところで、おなじ旋律が平行調へ移旋できるのって、さいしょから仕組むものなのでしょうか。──なりゆきまかせです。

    平行調に(も)のせてみて、はじめて問題ないと、判明する。旋律のさまざまな可能性をためしてみるひとつに、平行調への移旋がある。

    もちろん、平行調へも移旋可能な旋律には、それなりのクセがある。ざっくりと、音階音のみで構成され、ダイアトニックな作例は多い。

    そうやってながめてみると、今回の課題旋律も、きわめてすなおに、ダイアトニックな音で構成されている。


    さて、応募作品の編成は制限なし。なんでもやってみたいものでオーケイ。

    応募作品に、寸評つけます。そのあとZOOMを使った質問会を、任意参加で開催(別料金)。

    あそびのつもりで、まずはじめてみよう。  


  • 2021年06月07日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00Comments(0)

    肉の家より

    町田市で作曲家やってるTomです。注文していたパレスチナの国旗が届いた──パレスチナは、ベツレヘム(日本語通称)より。

    ベツレヘムの原綴り、بيت لحمを直訳すると、「肉の家」。

    90x150センチの、日よけにもなりそうな超大判。ともあれ、これでいつでも旗幟を鮮明にできますね。

    ちなみに、発送連絡があった当時のベツレヘム(通称)の様子。



    画像内、緊急=عاجلとある2行の速報。

      イスラエル占領軍はパレスチナ人家屋に向けガス弾を発砲、ベツレヘム北部。

    活発な抗議行動にたいする、暴力的な制圧(出典:2021年5月18日、アルジャジーラ)。

    たまたま当時、アルジャジーラが映像の中継=مباشرおよび、現地リポートしていた。

    最下行の流れるニュースは、「イスラエル軍のスポークスパーソン:ガザから3,300発のロケット弾が発射される、その大半は北部地区から」。

    ***
    2021年6月5日、アルジャジーラの女性リポーター、ジバーラ・ブデーリーが、エルサレムはシャイフ・ジャラーハ通りで取材中に拘束。その後、同日中に解放。

    連行された中央警察署前でリポート(7:30ころ)後、解放・取材をうける様子(19:50ころ)のどちらもが、以下の動画で確認できる。



    丸腰のリポーターへ、どんな暴行をくわえ手錠をかけているか。ストリーミングで確認できた、「Don't touch!」を何度も絶叫する音声は、さらに壮絶。

    2021年5月15日には、ガザ地区在、アルジャジーラと米AP通信のはいるタワービルが、やはり生中継の目前でミサイル攻撃を受け、倒壊。

    イスラエルが報道を、とりわけ外国メディアを敵対視しているのはあきらか。不正義と非道な暴力が報道されることで、世界中の抗議をよびおこすからだ──わたしもふくめて。  
    タグ :アラブ


  • 2021年06月06日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00Comments(0)