通奏低音はお好き?
町田市で作曲家やってるTomです。一般語と化した、「通奏低音」。でも、その意味って。
朝日デジタルサイト内記事検索に、「通奏低音」をかける。2018年8月24日~2023年5月20日分。
「通奏低音」につづく表現は、おおまかにつぎの三つにわけられる。
もちろん、音楽用語としてのそれ(後述)は、のぞいてある。
・〜である・なる
・響く
・流れる
*各用例
である・なる
・~になる
・~となる
・~だ
・~となっている
・~にあるように思う
・「通奏低音」になった
・「通奏低音」である
・~に身を切られるような寂しさがあり
・~は怒り。
・~は変えなかった
・「通奏低音」とも言うべき
・「通奏低音」になってる
響く
・~として響いている
・~として響き続けている
・~のように響き続ける
・~のように響く
・~が共鳴し合うような
・~のように鳴り響いてる
・~の響きに耳を澄ませながら
流れる
・~のように流れる
・~のような思いが流れている
・~で流れていた
・~として流れる
つづく
・~のようにつづいている
・~のように続く
その他
・~のように心に残った
・~さながら轟きわたる
・~の上で「協奏」した点にある
*もちいられた記事のジャンル
書評/論説/映画評/時評/創作インタヴュー/講評/美術評
どれも他人の作品にテクストで、からんでくタイプ。
*用法
作品に伏在もしくは底流するテーマ等を、評者が指摘するのに、もちいられている。
*私見
どれも後述する本来の語義から、大胆かつ自由に、変奏されているのがわかる。
とりわけ「~のような思い」とか、「~さながら轟きわたる」とか。
それ、どこも音楽と関係ないじゃん。
*本来の語義
通奏低音は、現在ではつかわれない、過去の音楽スタイル。1600年頃から、200年ていど。鍵盤楽器か、撥弦楽器。
その意味するところは、伴奏部において音符をすべて書き込むのではなく、ベースに付した数字表記で指定すること。いわば、制約のなかの自由。
そんな通奏低音の性格は、上掲の表現のどこにもうかがわれない。
あくまで、それとめだたないけど、指摘するに足る「裏テーマ」みたあつかい。
あきらかにことばが記号接地していない。
*私見その2
文字面(=もじづら)だけをそのまま直訳したと、とらえればいいのかもしれない。
通奏=ずっと演奏されている
低音=メロディではない、その支え
結果、めにみえないけど、よりそうかのように、ずっとそこにある/いる存在。
音楽から半分(以上)はなれた、ただ、ことばそのもの。「響く」や「ながれる」をまとうのも、タマタマ、オリジナルが音楽用語だったから。
「~は変えなかった」にいたると、もはや音楽からの類推すら困難な用法。
*用法の地域制限
なによりこれら「通奏低音」は、日本語として流通する。
つまり、これら上掲の用法は、たとえばスペイン語等では、ありえない。日本語以外にホームをもたない用法と、いえる。
もしくは日本では、特別な音楽用語が、日常の書き言葉に根を下ろしたとも。
それがいつからはじまったものかは、さらなる考察の対象足る。
参考文献
今井むつみ・秋田善美『言語の本質』(2023年、中公新書)
朝日デジタルサイト内記事検索に、「通奏低音」をかける。2018年8月24日~2023年5月20日分。
「通奏低音」につづく表現は、おおまかにつぎの三つにわけられる。
もちろん、音楽用語としてのそれ(後述)は、のぞいてある。
・〜である・なる
・響く
・流れる
*各用例
である・なる
・~になる
・~となる
・~だ
・~となっている
・~にあるように思う
・「通奏低音」になった
・「通奏低音」である
・~に身を切られるような寂しさがあり
・~は怒り。
・~は変えなかった
・「通奏低音」とも言うべき
・「通奏低音」になってる
響く
・~として響いている
・~として響き続けている
・~のように響き続ける
・~のように響く
・~が共鳴し合うような
・~のように鳴り響いてる
・~の響きに耳を澄ませながら
流れる
・~のように流れる
・~のような思いが流れている
・~で流れていた
・~として流れる
つづく
・~のようにつづいている
・~のように続く
その他
・~のように心に残った
・~さながら轟きわたる
・~の上で「協奏」した点にある
*もちいられた記事のジャンル
書評/論説/映画評/時評/創作インタヴュー/講評/美術評
どれも他人の作品にテクストで、からんでくタイプ。
*用法
作品に伏在もしくは底流するテーマ等を、評者が指摘するのに、もちいられている。
*私見
どれも後述する本来の語義から、大胆かつ自由に、変奏されているのがわかる。
とりわけ「~のような思い」とか、「~さながら轟きわたる」とか。
それ、どこも音楽と関係ないじゃん。
*本来の語義
通奏低音は、現在ではつかわれない、過去の音楽スタイル。1600年頃から、200年ていど。鍵盤楽器か、撥弦楽器。
その意味するところは、伴奏部において音符をすべて書き込むのではなく、ベースに付した数字表記で指定すること。いわば、制約のなかの自由。
そんな通奏低音の性格は、上掲の表現のどこにもうかがわれない。
あくまで、それとめだたないけど、指摘するに足る「裏テーマ」みたあつかい。
あきらかにことばが記号接地していない。
*私見その2
文字面(=もじづら)だけをそのまま直訳したと、とらえればいいのかもしれない。
通奏=ずっと演奏されている
低音=メロディではない、その支え
結果、めにみえないけど、よりそうかのように、ずっとそこにある/いる存在。
音楽から半分(以上)はなれた、ただ、ことばそのもの。「響く」や「ながれる」をまとうのも、タマタマ、オリジナルが音楽用語だったから。
「~は変えなかった」にいたると、もはや音楽からの類推すら困難な用法。
*用法の地域制限
なによりこれら「通奏低音」は、日本語として流通する。
つまり、これら上掲の用法は、たとえばスペイン語等では、ありえない。日本語以外にホームをもたない用法と、いえる。
もしくは日本では、特別な音楽用語が、日常の書き言葉に根を下ろしたとも。
それがいつからはじまったものかは、さらなる考察の対象足る。
参考文献
今井むつみ・秋田善美『言語の本質』(2023年、中公新書)