自作解説50号目『プロムナード集 Promenades』
町田市で作曲家やってるTomです。『プロムナード集』をば。
これは、12曲のピアノ独奏曲集。各曲は「~月のある日に」と、月ごとに1曲が充てられている。
すでにアートにエールを!東京プロジェクトに採択で、この中から6曲、即興演奏をはさんで演奏したプロジェクトを紹介。
プロムナードの語義は、「散歩」。それで、どの曲も気軽に弾けるよう、見開き2ページ以内。ページをめくるようだと、譜面を見ながら演奏するとき、途中で止まってしまう。
みじかい作品に説得力をもたせるには、組曲の一部とするのがよろしい。シューマン『こどもの情景』や、ドビュッシー『こどもの領分』が代表的。
『プロムナード集』でも、目的はおなじ。だが、もっとみじかい。ほぼすべての曲が、1分以内。
さいしょからみじかく書かれた作品は、とちゅうで挫折せずに弾き切りやすい。弾き切れると、ちがう作品も弾きたくなる。
いくつか弾いていると、だんだん弾きなれてくる。
みじかいと、いいことずくめ。
対象は手のちいさな人ではなく、大人。だから、あまり具象的にならないタイトルを工夫した。また、大人の鑑賞/感性に耐える内容を、吟味。
チャイコフスキー『四季』は、四季にちなんだ12曲がならぶ、ピアノ曲集。おなじく各月が宛てられた『プロムナード集』だが、『四季』の各曲のような標題性はない。大人の感性がなにを感じとるかは、個々人にまかせられる。
その一方、12曲を通して弾いた際にもまとまりを感じられるよう、曲調、技術的に要求されるもの(さいしょの曲がいちばんやさしい)、調性の配列を工夫。
作品が要求する技術程度や、構成の長大さは、芸術性とは別問題だとの、俺なりのマニフェストです。
ここでも大バッハの『適正律』、特にその前奏曲は、一つの模範だろう。標題性は一切ないのに、一聴して各曲を明瞭に特徴づける、洗練されたテクスチャー。きわめて充実した和声上のドラマが、1曲内のテクスチャーの変化と切り結ぶ、鮮烈さ。すべての長短調を網羅する、徹底した作品構成への探究。おもわず大バッハの快感で述べたことを、ここでもくりかえしたくなってしまう。
とはいえドビュッシーも、ショパンもラフマニノフもやってるように、前奏曲だけを曲集とするのは、どうにも座りが悪い。それが間奏曲集でも、おなじこと。ブラームスがやってるけど。
前奏曲なのに、そのあとに、なにも続かない。間奏曲なのに、その前後になにもない。あたかも幕間劇だけを、とりだして見せるような。ドーナツの穴をたべるような。
プロムナードなら、その配列位置を問わない。もうすこしいうと、何かと何かの「あいだ」にあるのが、プロムナードだ。
もし、プロムナード=散歩それ自体が、自己目的化したら、目的地をもってしまう。どこかに到達するのが、プロムナードの目的ではない。それ自体が前景化しないのが、プロムナードの存立条件だ。
だから各曲も、みじかくなる。気ままな散歩だから、みえてくる風景があるように。
おなじ理由で、プロムナードは、強い完結性を自己目的化しない。今回は12曲で、ひとまずまとまったが、プロムナードの探究はこれからも続くであろう。
各曲解説は、次回以降に。
楽譜はこちらからどうぞ。
https://store.piascore.com/scores/59375
これは、12曲のピアノ独奏曲集。各曲は「~月のある日に」と、月ごとに1曲が充てられている。
すでにアートにエールを!東京プロジェクトに採択で、この中から6曲、即興演奏をはさんで演奏したプロジェクトを紹介。
プロムナードの語義は、「散歩」。それで、どの曲も気軽に弾けるよう、見開き2ページ以内。ページをめくるようだと、譜面を見ながら演奏するとき、途中で止まってしまう。
みじかい作品に説得力をもたせるには、組曲の一部とするのがよろしい。シューマン『こどもの情景』や、ドビュッシー『こどもの領分』が代表的。
『プロムナード集』でも、目的はおなじ。だが、もっとみじかい。ほぼすべての曲が、1分以内。
さいしょからみじかく書かれた作品は、とちゅうで挫折せずに弾き切りやすい。弾き切れると、ちがう作品も弾きたくなる。
いくつか弾いていると、だんだん弾きなれてくる。
みじかいと、いいことずくめ。
対象は手のちいさな人ではなく、大人。だから、あまり具象的にならないタイトルを工夫した。また、大人の鑑賞/感性に耐える内容を、吟味。
チャイコフスキー『四季』は、四季にちなんだ12曲がならぶ、ピアノ曲集。おなじく各月が宛てられた『プロムナード集』だが、『四季』の各曲のような標題性はない。大人の感性がなにを感じとるかは、個々人にまかせられる。
その一方、12曲を通して弾いた際にもまとまりを感じられるよう、曲調、技術的に要求されるもの(さいしょの曲がいちばんやさしい)、調性の配列を工夫。
作品が要求する技術程度や、構成の長大さは、芸術性とは別問題だとの、俺なりのマニフェストです。
ここでも大バッハの『適正律』、特にその前奏曲は、一つの模範だろう。標題性は一切ないのに、一聴して各曲を明瞭に特徴づける、洗練されたテクスチャー。きわめて充実した和声上のドラマが、1曲内のテクスチャーの変化と切り結ぶ、鮮烈さ。すべての長短調を網羅する、徹底した作品構成への探究。おもわず大バッハの快感で述べたことを、ここでもくりかえしたくなってしまう。
とはいえドビュッシーも、ショパンもラフマニノフもやってるように、前奏曲だけを曲集とするのは、どうにも座りが悪い。それが間奏曲集でも、おなじこと。ブラームスがやってるけど。
前奏曲なのに、そのあとに、なにも続かない。間奏曲なのに、その前後になにもない。あたかも幕間劇だけを、とりだして見せるような。ドーナツの穴をたべるような。
プロムナードなら、その配列位置を問わない。もうすこしいうと、何かと何かの「あいだ」にあるのが、プロムナードだ。
もし、プロムナード=散歩それ自体が、自己目的化したら、目的地をもってしまう。どこかに到達するのが、プロムナードの目的ではない。それ自体が前景化しないのが、プロムナードの存立条件だ。
だから各曲も、みじかくなる。気ままな散歩だから、みえてくる風景があるように。
おなじ理由で、プロムナードは、強い完結性を自己目的化しない。今回は12曲で、ひとまずまとまったが、プロムナードの探究はこれからも続くであろう。
各曲解説は、次回以降に。
楽譜はこちらからどうぞ。
https://store.piascore.com/scores/59375