地球がうみだすキセキ:宝石
町田市で作曲家やってるTomです。地球のうつくしいかけら、宝石。
国立科学博物館で来年開催の、特別展 宝石。その日程が決定した。
https://hoseki-ten.jp
展示には、むだなくつかう:アンカットダイヤモンドで紹介した、SUWAさんも協力してます。
宝石の鉱物としての側面、そして宝飾品としての側面が半々の展示になるようだと、9月の時点でおしえていただいた。
公式サイト(2021年11月3日アクセス)のうたい文句に、「科学的(=鉱物)、文化的な切り口(=宝飾品)で紹介し」とあるのが、まさにそれ。
*
上掲ブログの参考文献、『ダイヤモンド:原石から装身具へ』共著者の諏訪恭一氏は、現物をもちいた34種の宝石クオリティスケールを、諸著作で提供している。
さらには、同一デザインのリング3本に、それぞれことなった品質の小粒ダイヤモンドをならべた写真も。消費者に品質/価値のちがいを、一目瞭然でしらしめる。
たしかに宝飾品ブランドは、例外なくどこも、宝石の品質をうたっている。けれども低品質のそれをも例示し、一覧でみえる化、そのどの範囲を使用しているかまでしめすのはきわめて誠実な態度で、宝石の権威と呼びたくなる。
そしてそれは、品質についての情報を提供する、どちらかといえば科学的な切り口。
*
その一方で、今回展示予定の「100点超の華やかなジュエリー」は、文化的な切り口にあたる。公式サイトに掲載されているジュエリーは、どれもトーゼン、研磨をほどこされた宝石がセットされている。
ひるがえってSUWAさんが21世紀に提案する、原石のままで「きらびやかな姿」の透明度かつ、自然の正八面体・不定形ダイヤモンドをもちいたジュエリーには、一粒をみつめる鉱物の側面がみとめられる。
しかしながらそこには、華やかなジュエリーを超えた、あらたな美がみいだされている:あくまでも、宝石=原石そのものにこだわり、着目することで。
とりわけ、不定形ダイヤモンドを海面に見立て、リングやペンダントに仕立てた「オーシャン」は、不定形でしかありえないデザイン。そこではもはや、ソリテールリングにおける、対称性をほこる研磨ダイヤモンドの存在意義は、みいだせない。
まさに視点の革新。美は、それをみいだす視線に在る。
*
または、こうもいえるかもしれない。原石=科学的=自然、研磨された宝石=文化的=芸術。
ところが、ラウンドブリリアントカットのダイヤモンド(=芸術)に代表される、かがやきをひきだす計算は、科学によるもの。
つまり、かがやきをひきだすカットをほどこされた宝石を、最大限までいかすデザインは、芸術というよりも、むしろ科学であるかもしれない。
それとは対照的に、原石ダイヤモンド(=自然)をセットしたジュエリー(=芸術)は、だから、これまでのジュエリーの概念をくつがえす、21世紀ゆえのポテンシャルを秘めているとも。
「自然」もまた、「芸術」を模倣する(by オスカー・ワイルド)。
Oscar Wilde "The Decay of Lying: An observation" in The Soul of Man under Socialism& Selected Critical Prose. (Penguin Classics, 2001), 163-192.
オスカー・ワイルド「嘘の衰退」西村孝次訳『オスカー・ワイルド全集』4(東京:青土社,1989年),9-49.
国立科学博物館で来年開催の、特別展 宝石。その日程が決定した。
https://hoseki-ten.jp
展示には、むだなくつかう:アンカットダイヤモンドで紹介した、SUWAさんも協力してます。
宝石の鉱物としての側面、そして宝飾品としての側面が半々の展示になるようだと、9月の時点でおしえていただいた。
公式サイト(2021年11月3日アクセス)のうたい文句に、「科学的(=鉱物)、文化的な切り口(=宝飾品)で紹介し」とあるのが、まさにそれ。
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上掲ブログの参考文献、『ダイヤモンド:原石から装身具へ』共著者の諏訪恭一氏は、現物をもちいた34種の宝石クオリティスケールを、諸著作で提供している。
さらには、同一デザインのリング3本に、それぞれことなった品質の小粒ダイヤモンドをならべた写真も。消費者に品質/価値のちがいを、一目瞭然でしらしめる。
たしかに宝飾品ブランドは、例外なくどこも、宝石の品質をうたっている。けれども低品質のそれをも例示し、一覧でみえる化、そのどの範囲を使用しているかまでしめすのはきわめて誠実な態度で、宝石の権威と呼びたくなる。
そしてそれは、品質についての情報を提供する、どちらかといえば科学的な切り口。
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その一方で、今回展示予定の「100点超の華やかなジュエリー」は、文化的な切り口にあたる。公式サイトに掲載されているジュエリーは、どれもトーゼン、研磨をほどこされた宝石がセットされている。
ひるがえってSUWAさんが21世紀に提案する、原石のままで「きらびやかな姿」の透明度かつ、自然の正八面体・不定形ダイヤモンドをもちいたジュエリーには、一粒をみつめる鉱物の側面がみとめられる。
しかしながらそこには、華やかなジュエリーを超えた、あらたな美がみいだされている:あくまでも、宝石=原石そのものにこだわり、着目することで。
とりわけ、不定形ダイヤモンドを海面に見立て、リングやペンダントに仕立てた「オーシャン」は、不定形でしかありえないデザイン。そこではもはや、ソリテールリングにおける、対称性をほこる研磨ダイヤモンドの存在意義は、みいだせない。
まさに視点の革新。美は、それをみいだす視線に在る。
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または、こうもいえるかもしれない。原石=科学的=自然、研磨された宝石=文化的=芸術。
ところが、ラウンドブリリアントカットのダイヤモンド(=芸術)に代表される、かがやきをひきだす計算は、科学によるもの。
つまり、かがやきをひきだすカットをほどこされた宝石を、最大限までいかすデザインは、芸術というよりも、むしろ科学であるかもしれない。
それとは対照的に、原石ダイヤモンド(=自然)をセットしたジュエリー(=芸術)は、だから、これまでのジュエリーの概念をくつがえす、21世紀ゆえのポテンシャルを秘めているとも。
「自然」もまた、「芸術」を模倣する(by オスカー・ワイルド)。
Oscar Wilde "The Decay of Lying: An observation" in The Soul of Man under Socialism& Selected Critical Prose. (Penguin Classics, 2001), 163-192.
オスカー・ワイルド「嘘の衰退」西村孝次訳『オスカー・ワイルド全集』4(東京:青土社,1989年),9-49.
2021年11月04日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00 │Comments(0)
動物の第6感
町田市で作曲家やってるTomです。観察してるつもりが、されてたってはなし。
ワシタカ類のまぢかな飛翔を期待できる、多摩動物公園のフライングケージ。あくまでも、相手がその気になったらだけど、、。
で、オオワシのそれを期待して、カサもってがんばるヒト、ひとり。フライングケージに到着。15時32分頃。
15時45分に飼育員が到着。エサをあちこちにくばるものの、どの一羽もあめのなか、ピクリともしない。
それでもやがて、イヌワシとオジロワシが飛翔をみせ、エサにありつく。
めのまえのオオワシは、あいかわらずピクリともしない。ときに鳴き、ときに排泄行動。しかし、めのまえのヒトがみまもるなか、エサにむかうようすはみせないまま。
そのうち、このオオワシはめのまえのヒトが飛翔を期待しているのをしっていて、うごかずにがんばっているのではないかと、おもわれだす。
「武士は食わねど高楊枝」とのことわざが、しきりにおもいうかぶ。しかし、それになんの得があるのか(と、ヒトはぎもんにおもう)。
チラチラ時計をみつつ、せめてエサが到着してから1時間後、16時45分までがんばろうと。そしたら。
おお、とうとうオオワシが飛翔!すぐに時計を確認する。16時45分。
それからは、肉片をのんびり一羽で採食行動。いぜんも採食行動をかくにんしたのと、おなじばしょで。あきらかに定位置。
それにしてもオオワシの飛翔と、ヒトが観察のタイムリミットにした時刻が、ピッタリかさなったのは、なにが説明するだろう。
ヒトをガックリさせようと(←やつあたり)、動物の第6感とよりほか、かんがえられない。雨中の、いないふり凍りつき観察(=ヒト)と、エサをまえに(=オオワシ)、異種間のがまんくらべ。
しかしながらヒトは、よろこびにみちて17時閉園の鐘をききつつ、帰途につきましたとさ。
*
ちなみに『オオワシ Steller's sea eagle』というタイトルで、ピアノ、オーボエ、ホルンの三重奏も書いている。解説はこちら。
ワシタカ類のまぢかな飛翔を期待できる、多摩動物公園のフライングケージ。あくまでも、相手がその気になったらだけど、、。
で、オオワシのそれを期待して、カサもってがんばるヒト、ひとり。フライングケージに到着。15時32分頃。
15時45分に飼育員が到着。エサをあちこちにくばるものの、どの一羽もあめのなか、ピクリともしない。
それでもやがて、イヌワシとオジロワシが飛翔をみせ、エサにありつく。
めのまえのオオワシは、あいかわらずピクリともしない。ときに鳴き、ときに排泄行動。しかし、めのまえのヒトがみまもるなか、エサにむかうようすはみせないまま。
そのうち、このオオワシはめのまえのヒトが飛翔を期待しているのをしっていて、うごかずにがんばっているのではないかと、おもわれだす。
「武士は食わねど高楊枝」とのことわざが、しきりにおもいうかぶ。しかし、それになんの得があるのか(と、ヒトはぎもんにおもう)。
チラチラ時計をみつつ、せめてエサが到着してから1時間後、16時45分までがんばろうと。そしたら。
おお、とうとうオオワシが飛翔!すぐに時計を確認する。16時45分。
それからは、肉片をのんびり一羽で採食行動。いぜんも採食行動をかくにんしたのと、おなじばしょで。あきらかに定位置。
それにしてもオオワシの飛翔と、ヒトが観察のタイムリミットにした時刻が、ピッタリかさなったのは、なにが説明するだろう。
ヒトをガックリさせようと(←やつあたり)、動物の第6感とよりほか、かんがえられない。雨中の、いないふり凍りつき観察(=ヒト)と、エサをまえに(=オオワシ)、異種間のがまんくらべ。
しかしながらヒトは、よろこびにみちて17時閉園の鐘をききつつ、帰途につきましたとさ。
*
ちなみに『オオワシ Steller's sea eagle』というタイトルで、ピアノ、オーボエ、ホルンの三重奏も書いている。解説はこちら。
タグ :どうぶつ
2021年11月03日 Posted by Tom Motsuzai at 11:00 │Comments(0)
むだなくつかう:アンカットダイヤモンド
町田市で作曲家やってるTomです。
資本主義が要請する(ともいえる)、計画的陳腐化&使い捨てへの対抗戦略を、いかにして個人レヴェルで遂行するか──むだなくつかうです。
経年使用が愛着をわかせるモノなら、なおさら。
そんなわけで、実際に使用している、むだなくつかっているモノを紹介してみたい。
*
研磨せずに原石のまま、アンカットダイヤモンド。
ひきつづきSUWAさん。
https://www.suwagem.com/jp/ud/index.html
**
われわれが目にする宝石としてのダイヤモンドは、研磨して対称的なかたちをととのえ、かがやきをつよめたもの。
だが、産出した原石のままでも透明度が高く、自然の(ほぼ)正八面体カットが実現されているものがある。
ちょうどピラミッドをふたつ、上下さかさまにくっつけたような、その正八面体カットをくみこんだ指輪。
結果として、原石の尖った部分もまた、指輪の一部であるかのように、デザインされている。
原石から研磨したダイヤモンドの歩留まりは、よくて50%、なかには2割ていどのものも。
それは尾頭付きの、内蔵も骨もウロコもすべて擁する生きた魚を、あたかも刺身用の切り身にしたかのようだ。
原石はいきものではないが、そこには産出そのままの痕跡がある;たとえば結晶としての成長線。たとえば、表面のちいさな三角模様、トライゴン。
研磨によって、それら一つひとつの原石が擁する個性はそぎおとされ、規格化された4Cで評価されることになる。
結果として、研磨ダイヤモンドを複数ならべたデザインが、可能にもなる。
**
しかしながらアンカットダイヤモンドは、みつめる視線をそれひとつに集中させ、規格にそった比較を不可能にする。歩留まりは100%。
宝飾品用ダイヤモンドの価値/評価の革新とも、研磨以前のそれにもどったとも。ならべる意義が低く、一つひとつが個性。
もちろんそのままでうつくしいものはごくかぎられ、研磨をほどこすことで、その価値を十全にあらわにする原石が、圧倒的な割合をしめすことも、付記する必要がある。
***
58面をほどこされたブリリアントカットは、たえまなくキラキラするのが身上。8面(ほど)しかもたない自然の正八面体カットは、その大きな面が、ときにキラッとする。かえって、かがやきの印象がつよい。
諏訪恭一、アンドリュー・コクソン『ダイヤモンド:原石から装身具へ』(世界文化社、2009年)。
資本主義が要請する(ともいえる)、計画的陳腐化&使い捨てへの対抗戦略を、いかにして個人レヴェルで遂行するか──むだなくつかうです。
経年使用が愛着をわかせるモノなら、なおさら。
そんなわけで、実際に使用している、むだなくつかっているモノを紹介してみたい。
*
研磨せずに原石のまま、アンカットダイヤモンド。
ひきつづきSUWAさん。
https://www.suwagem.com/jp/ud/index.html
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われわれが目にする宝石としてのダイヤモンドは、研磨して対称的なかたちをととのえ、かがやきをつよめたもの。
だが、産出した原石のままでも透明度が高く、自然の(ほぼ)正八面体カットが実現されているものがある。
ちょうどピラミッドをふたつ、上下さかさまにくっつけたような、その正八面体カットをくみこんだ指輪。
結果として、原石の尖った部分もまた、指輪の一部であるかのように、デザインされている。
原石から研磨したダイヤモンドの歩留まりは、よくて50%、なかには2割ていどのものも。
それは尾頭付きの、内蔵も骨もウロコもすべて擁する生きた魚を、あたかも刺身用の切り身にしたかのようだ。
原石はいきものではないが、そこには産出そのままの痕跡がある;たとえば結晶としての成長線。たとえば、表面のちいさな三角模様、トライゴン。
研磨によって、それら一つひとつの原石が擁する個性はそぎおとされ、規格化された4Cで評価されることになる。
結果として、研磨ダイヤモンドを複数ならべたデザインが、可能にもなる。
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しかしながらアンカットダイヤモンドは、みつめる視線をそれひとつに集中させ、規格にそった比較を不可能にする。歩留まりは100%。
宝飾品用ダイヤモンドの価値/評価の革新とも、研磨以前のそれにもどったとも。ならべる意義が低く、一つひとつが個性。
もちろんそのままでうつくしいものはごくかぎられ、研磨をほどこすことで、その価値を十全にあらわにする原石が、圧倒的な割合をしめすことも、付記する必要がある。
***
58面をほどこされたブリリアントカットは、たえまなくキラキラするのが身上。8面(ほど)しかもたない自然の正八面体カットは、その大きな面が、ときにキラッとする。かえって、かがやきの印象がつよい。
諏訪恭一、アンドリュー・コクソン『ダイヤモンド:原石から装身具へ』(世界文化社、2009年)。
タグ :モノ雑記